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マーカスエバンズ (Marcus Evans)

1983年に設立されたグローバルイベント企業。企業のマネジメント層に向けて、戦略的意思決定に資するビジネス情報を提供している。世界各地に広がるネットワークを活かし、年間150以上のビジネスサミットをはじめ、カンファレンスやビジネストレーニング、市場分析、出版、コーポレートホスピタリティなど多様な事業を展開。質の高い戦略情報の提供を通じて、参加企業の競争優位の確立とビジネスの成功を支援している。
大手化学メーカーの戦い方の再設計
「同じことをやっていても勝てない」 。——
大手化学メーカーのトップが口にしたその言葉は、決して大げさではない。世界の競争環境は確実に質を変えている。三井化学 常務執行役員 CTO の表 利彦氏は、世界市場で進む競争の質的変化を見据えながら、「戦い方の再設計」について語った。
とりわけ中国は、巨額の研究開発投資と豊富な人材を武器に存在感を急速に高めている。GDP比2.54パーセントという巨額の投資を背景に、研究開発人員数は世界で圧倒的な1位を占める。しかも、数だけではない。欧米の著名な大学や研究機関で高度な教育を受けた人材が中国へ戻り、研究開発の中核を担っている。さらに、働き方の違いも無視できない。中国企業では24時間3交代で研究が回る一方、日本では時短や定時退社の推進が進む。
物量や人材規模で勝負する従来型のモデルでは、すでに世界の競争地図に飲み込まれつつある。表氏の言葉には、静かながらも切実な危機感がにじんでいた。
こうした中で、日本の化学メーカーは何で勝つのか。資本力や物量で劣る前提に立ったとき、従来と同じやり方を続けるだけでは立ち行かない。三井化学が2024年に打ち出した石油化学事業の分社化も、その問いへの一つの答えである。そこには単なる組織再編ではなく、「戦い方そのものを変える」という強い意思が込められている。
表氏が語ったのは、その前提に立ったうえでの“研究開発の再設計”である。

創作料理のように多様な価値を組み合わせる
これまで三井化学では、研究開発組織が事業部から独立した形で動いていた。石油化学のように単体材料を磨き上げるモデルであれば機能したが、成長領域では市場との距離が課題になる。素材をつくるだけでは、顧客価値に届かない。 そこで表氏は、研究と開発を同じ「R&D」として扱うこと自体を見直す。
研究は、将来に向けて知識を蓄える段階だ。時間もかかり、すぐに利益は出ない。一方、開発は知識を知恵に変え、顧客価値へと結びつけ、経済価値へと結びつける段階である。「お金を使って終わるのではなく、回収して初めてイノベーションになる」つまり、技術を生むことと、技術を価値に変えることは別の仕事だという認識である。
研究を強くするだけでは足りない。どう事業へとつなぐか――。その“つなぎ目”を強化するために設けられたのが、新事業開発センター(NBIC)とCVCだ。社内の技術シーズと外部技術を掛け合わせ、事業として成立する形に組み上げる。表氏は「大企業の新事業開発もスタートアップと同じです」と語る。本命一本勝負ではなく、用途を広げながら技術を育て、最終的な市場へと持ち込む。
単一材料で価格競争に陥るのではなく、材料に加工技術を掛け合わせ、評価技術やシミュレーション、さらにはデジタルまでを組み合わせて価値をつくる。「目的を変えると結果が違う。周辺の食材が一つひとつの製品になり、その中で使われている材料が技術そのものになる」創作料理のように多様な価値を組み合わせる戦略へと歩を進めているという。
また、バリューチェーンの中で一度きりの取引をするのではなく、複数の工程で価値を出す“キーストーン”の位置を取る重要性を示す。さらに、できるだけ最終製品やデータに近い下流に立ち、顧客の生産性や成果に直接効く価値を提供する重要性を説く。顧客が求めているのは材料スペックそのものではなく、自社の競争力向上だからである。こうして構造的に「なくてはならない存在」になれば、資本力や研究人員数で劣っていても、競争の土俵そのものを変えることができる。
その勝ち筋の背景にあるのが、表氏が前職の日東電工で推進してきた「グローバルニッチトップ戦略」だ。ニッチとは“小さい市場”ではない。「エコシステムの中で“ここにいてください”と言われるポジションを取ること」と生態系に例え伝えた。
強い研究をつくるのではない。研究を、事業へと変える。三井化学の組織改革は、その勝ち筋を現実のものにするための設計図なのである。

研究開発に失敗はない
質疑応答で、新事業の中断や撤退の判断について問われた表氏は、興味深い考え方を示した。「研究開発に失敗はないと思っています」一度止めたテーマでも、それは“失敗”ではない。技術の成熟度が足りなければ、研究段階に戻す。だが、数年後に再挑戦し、見事に機能が発現した例もあるという。
また、表氏は意思決定を1人で行うことを避けているという。「私1人で決めたことは失敗している。逆に、いろいろな意見を聞きながら決めたことの多くが成功している」。現在は「トライアウト制度」のもと、社内外のメンバーを含むコミッティーで進退を判断する。研究テーマを一定の評価軸で可視化し、段階ごとに前進・保留・再挑戦を決める仕組みである。すべてを成功させようとするのではなく、打率を高めるためにテーマを入れ替える。技術の成熟度や市場性を定量的に見極め、段階に応じて前進させるか、いったん保留するかを決める。
「1人で決めないこと、頑張るメンバーがいること」
その環境こそが、新しいアイデアを生み出す土壌になると表氏は語った。

100年企業が直面する新規事業の壁
新規事業担当者が集まる座談会では、象印マホービン(創業108年)、日本ハム(80年)、ヤマハ(139年)、ハナマルキ(108年)から4名が登壇した。長年変革を続けてきた企業だが、新規事業推進には共通の壁があった。
象印マホービンの岩本雄平氏は、100周年を機に設立された新事業開発室で7年間、飲食事業やマイボトル洗浄機などを手がけてきた。「象印ブランドが通用する領域であること」だけが縛りであり、社長肝いりで始まった。自由度は高かった一方で、1人が複数テーマを抱え、起承転結をすべて担う体制で走り続ける厳しさを語った。
ヤマハの倉光大樹氏は、2025年4月に立ち上がった社長直轄の新規事業開発部に所属する。「期待感を持って見守っていただいているが、プレッシャーも大きい」。笑顔ながらもその言葉には、立ち上げ期ならではの緊張感がにじむ。倉光氏があげた“既存事業の評価軸で比較されるもどかしさ” という壁には他の登壇者からも共感の声が上がった。
日本ハムの高崎賢司氏は「壁しかない」と豪快に笑う。その一言に会場も和むが、内容は切実だ。グローバル展開は既存の仕組みを広げる話だが、新規事業は違う。売ることも、プロダクトも、サービス設計も、すべてを自分たちで担わなければならない。“全部やる”難しさがある。よく“若い自由な発想”という言葉が先行しがちだが、経験がなければ社内をドライブできない。誰を巻き込むか、誰を“バスに乗せるか”が重要だと語る。
さらに、立ち上げ当初は社長特命で勢いがあっても、やがて「ロットが乗らない」という既存事業の論理が立ちはだかる。小さいうちは無理やり進めても、社内にフェードアウトの空気が流れ始める。だからこそ、高崎氏は社外評価を意識すると言う。社内で語るより、外部の目に触れ、評価されることで、事業は社内で“意味を持つ”。新規事業の戦いは、市場だけでなく、社内にもある。
議論は「新規事業とマーケティング」にも及んだ――。
ハナマルキの平田 伸行氏は、リクルートなどでマーケティング、宣伝広報などを歴任した経歴を持つ。氏もまた、社外での注目やPRを社内に示すことで、自信と納得をつくるプロセスを重視していると語る。一方で、10年間で売上を約10倍に伸ばしたヒット商品「液体塩こうじ」は、綿密な市場分析から生まれたわけではなかった。
「とにかく、液体塩こうじをどうやったら使ってもらえるか。もう開拓あるのみでした」
塩麹ブームという追い風の中で、同社のドメインである「麹・発酵」に合致する機会を捉え、「これは逃せない」と経営と腹を括った。市場データよりも、まずは現場での試食販売やPRを優先し、実際に売りながら市場を切り拓いていったという。
ただし、その推進は社員個々の強いコミットメントに支えられていた面もある。だからこそ、今後の課題は仕組み化と組織基盤の強化だと振り返る。

共創と旗振り役の重要性
社内外との共創のあり方も議論された。高崎氏は「自社のバリューチェーンだけでは新しいことが起こせない」と指摘する。自社にあるラインは決まっているため、そこから生まれるのは小さな変化でしかない。「そういうものを持っている人が外にいるなら、外の人とやった方がいい。しかも社外の人の方が意外と『やろうよ』と協力してくれる(笑)」
ただし共創には注意点がある。「抜け駆けしちゃダメ。まず“ギブ”しないとダメなんです。自分ができることは貢献したいと相手の会社に示す。リターンは返ってくるだろうという姿勢でないと話が進まない」。企業規模やスピード感が違う中で、お互いの勝ち筋を示し、同じ未来を描くことが重要だと強調した。
倉光氏は、旗振り役を育てる上で小さな成功体験の重要性を指摘した。「旗振り役が事業を引っ張る。ただ、新規事業は壁だらけ。ぶつかってばかりだと折れてしまう。失敗の中でも『ここはできた』ということをわかってもらうことが大事です」
平田氏も“旗振り役の存在”が欠かせないと同意する。「トップは旗を振るが、経営者と社員の間に溝ができる。この社員の中から旗振り役が出てこないと新規事業はうまくいかない。旗振り役を一緒にやってくれる仲間づくりが重要です」

企業ブランドと新規事業
議論の終盤では、自社ドメインと新規事業の親和性をどう見極めるかが話題になった。
高崎氏は「日本ハムはタンパク質の会社」と定義する。美味しいハム・ソーセージを作るために美味しい肉が必要であり、動物の命をいただく以上は余すところなく使うというのが同社の思想だ。「豚の骨はラーメン屋さんに納品し、そこからラーメンスープを作る。タンパク質を軸に、新規事業もある」一方で、軸から外れているものに関してはベストオーナーなのかという問いも生じているという。
岩本氏は、ブランドを上位概念で捉え直すことで新規事業の正当性を確保できるという意見を自身の経験から述べた。「炊飯ジャーを作っている会社だが、視座を上げると『おいしいご飯を届ける会社』なんだと気づいた。そう捉えると飲食事業も全然おかしくない」。マイボトル洗浄機も「ちゃんと使ってもらうところまで責任を持つ会社になろうと思った時に生まれた」と語る。
平田氏は2年前にビジョンを策定した経験を紹介した。「『発酵調味料メーカーとして世界の食卓に貢献する』というビジョンを作った。日本国内の味噌というキーワードから変えて、発酵調味料メーカーという上位概念にすることで、そのビジョンの中では何をやってもいいことになる」
モデレーターの竹林氏(大阪大学フォーサイト)は、オムロンの事例を紹介した。FA機器、自動改札機、血圧計とバラバラに見える事業も、上位概念では「センサーの会社」であり、「流れのあるところにビジネスがある」という一貫した思想がある。「上位概念から俯瞰できるかではないか」と問いかけた。
技術の複合化や共創といった「つなぐ力」、旗振り役を中心とした「人を動かす力」、そしてブランドを再定義する「抽象化する力」。これらの重要性が、座談会を通じて浮かび上がった。老舗企業が次の100年に向けて何をつなぎ、誰が旗を振るのか。登壇者たちの試行錯誤は、新規事業に向き合う多くの製造業にとって現実的なヒントになりそうだ。

会場で生まれる「リアルな出会い」
今回のサミットのプログラムは、まさに日本の製造業にとって新たな「土壌」を育てるための栄養素に満ちていると感じた。
2日間にわたるプログラムでは、各セッションに加え、ランチやディナー、ネットワーキングの時間も設けられた。参加者は立場や業界の垣根を越えて意見を交わし、具体的な連携や協業の可能性について議論を深めた。公式プログラム以外の場でも活発な交流が生まれていたことは、本サミットの大きな特徴といえる。
最終日には、上方落語協会の落語家・笑福亭笑利氏が登壇。「ライト兄弟が空を飛ぶ100年前に、空を飛んだ日本人の話」をテーマに、落語という形式でイノベーションを語った。伝統芸能と製造業という異なる領域が交差するセッションは、参加者に新たな視点を提供する締めくくりとなった。
『Manufacturing Japan Summit 2026』は、講演を聴くだけの場ではなく、対話と交流を通じて次のアクションにつなげる場でもあった。ここで生まれたつながりや議論が、それぞれの現場でどのように展開していくのかが期待される。




登壇者の発言を的確に引き出しながら場の空気を和らげる進行は、多くの参加者を惹きつけていた。東京開催ではあったが、関西からの参加者も多く、会場には時折関西弁が飛び交うなど、終始リラックスした雰囲気に包まれていた。


